「ねッつれつ。君らこんな時代錯誤なことしてんの?」
熱烈。笑いを含んだ声の意味を理解して総毛を逆立てて振り向いた。
ヒラヒラと黒い革手袋で本を包んでいた紙を摘まんでいる仮面の指先に
顔が熱くなる。咄嗟に伸ばした手を交わされた。女泣かせだねーとにやにや笑
って揶揄する不真面目さが腹立たしい。
「馬鹿にするな。彼女の真情だ。」
「かーわいいの。」
「貴様、」
「涙のシミ。気付いてる?」
存外に真面目な口調だった。
すっと昇った血が下がる。知っている。幾つかの手紙の、少し薄い色のインクは所々滲んでいた。
本当には何時も通りだった。それどころかあのロボットとの騒動の日すらそうした一面
を見せることはなく、保健室で手当てをした桐雨の近くに来て「思ったより
元気そう」と言ってコロコロ笑っていた。損失していた五感が補われてからも、
それが損なわれる以前と変わることはなかった。
目を使えない間、ずっと積まれていた彼女から借りた本の背表紙と本体の間にも
、桐雨は自ら定めた決まりごとを行っている。三冊目の詩集は柔らかな感触のする白い
本だった。藍色のペンが滲む雫の温度がするようだ。女性特有の、現実的でいて
ふわふわ浮いた詞の羅列は、只の分泌物である筈の紙を濡らしてインクで色を着
けた水分に似ていた。
意地張りなのはどちらだ。
深い蒼で書き撲られた文字に咽喉の奥がぎゅうと絞られた感触は、未だに桐雨の
頭を苛んでいる。
「耐水のにすれば良かったのにね。」
不真面目な発言と正反対に、黒い手は表紙に本体を丁寧に収めて机に置いた。
「返事書いた?見せてよ。」
「書いていない。書いていたとして誰が貴様に。」
「いーの?ヘソ曲げちゃうんじゃない?ちゃんかわいそ。」
「・・・そうだな。」
頷いて少し笑った吊った大きな眼に、仮面の下は驚いて息を飲んだ。
「独り言を言う。聞き流せ。」
「…お前、」
「私は言語を多用することが嫌いだ。」
睫毛が長い。眼を伏せて頚を微かに曲げたせいで、西日の強い光線が頬に睫毛の
翳りをつくる。頬から顎に掛かる線には、女のまろみと男の鋭角さが両方存在していた。
かと思えば首には筋が浮いていて、裏返せば前下がりの色の薄い断髪の間か
ら覗く項は白く肌目細かいのだ。
だからどうということは仮面の少年にはない。まじまじと他人を眇めている後ろ
めたささえ感じない。背筋の伸びた目の前の人間は男で、その危うい平衡感覚で
存在する美しさは成長して行くに連れ変容して消える。ただ、そりゃあこの年頃
の少年を愛好する者が出るわけだと納得したくらいだ。
美しい貌は仮面を捉えない。
「べらべらと口にするだけで其れをする気のない輩には吐き気がする。有言実行
など小賢しい虚栄心の強い人間のすることだ。信念と云うものは、内に秘め懐か
ら見えることがなく形を窺う以外に方法がないからこそ美しいものだ。口にする
だけで嘘になるのだ。―――いいや、過去か。」
正しいと断定して其れを口にしたそのときには、もう過去に成って落っことす。
伏せていた眼を完全に閉じた。
「私は、総てを過去に落としていくのが恐いだけなのかもしれない。彼女に詞を
返すのが―――恐い。」
恐い。
其れは強さを求める自分達が口にすることは許されないだろう弱音だった。眼を
閉じた同じ年齢の境界線に立っている美しい人間は、口にすることで其の事実を
過去にしたいのだろうか。彼の独り言を纏めるとそういうことになる。
以上だ。彼は双眸を開いた。
「済まない。付き合わせた。」
「何かあったらこのネタで揺するからいいよ。」
「…貴様は…」
嘘だよ。右から左だ。舌を出しておどけた仮面に呆れた胴着に、へらへらと笑い
ながらハードカバーを差し出した。
受け取る手付きはそろそろとぎこちない。そういえば最近彼があの少女から本を
受け取るときには、ゆっくりと差し伸べて撫でるように手に挟んでいた。毀れ物
を丁重に扱うような愛情に充ちたような柔らかな手付きだった。視覚が遮られて
いたことと他人からの預かりものという要素のせいだと思っていたが、どうやら
少し事情が違っていたようだ。
「桐雨。」
番號で呼称する習慣のある衆の仮面が、少年の名を呼んだ。
「それでもお前は、あのこがことばをくれることが嬉しくてたまらないんだろ。」
そもそも言葉を目の敵にするような独り言を漏らした彼が、句に固執したり他人
から本を借りるどころか貸す程持ち合わせることが怪訝しいのだ。彼の恐怖はそ
の年代の彼らがもちあわせるひとつの感慨に似ていた。
二三辺りに視線をさ迷わせてから、右手を懐に潜らせた。彼の中性的な容姿の中
で、只ひとつ明らかに男性を思わせる節榑立った胝だらけの手は、充分迷いを見
せてから赤い封筒を連れて顔を見せた。仮面に突き出す。
「預かってくれ。」
「読むよ。」
「読むなと云っても読むだろう。勝手にするが良い。」
「書いてるんじゃん。」
「一通だけだ。最初の最初だ。」
「出しなよ。」
「…詞にはしたくない。」
仮面が腰を降ろしている机に眼を滑らせた。其処には赤い点がひとつ落ちていた
。そう、このようにぽろりと落としたくないのだ。
くしゃり。少年の調った貌が歪んだ。
「棄てられない。」
「ふと過る。渡して仕舞いたい。彼女はきっと顔を赤くして笑う。恥ずかしがっ
て少し怒るかも知れない。どうしてもっと早く言ってくれなかったのと責めるだ
ろう。けれど喜ぶ。絶対だ。彼女は読んで欲しいんだ。解っている。私のことばが欲
しいんだ。私に疎んじられるのが厭で読むなと言っているがそんなのは嘘だ。嘘
ッぱちだ。解っている。けれど、駄目だ。恐い。恐いんだよ彼女の反応が恐いん
じゃあない解るか秋山ッ。私は私の矜持を保たなければならないんだなのにその
自らが反射するように禁じ手を破ろうとするんだッ。なら棄てれば良い。もう使
えなくなった必要のない紙だ。不要だ。なのに駄目だ棄てられない。此れはなん
なんだ怪訝しいだろう。ばらばらで、ちぐはぐで、統制が、自分では―――」
取れない。溜め込んでいた鬱屈をすべて放出するように捲し立てて、掠れた咽喉
を震わせて最後に唇を噛み締めた。ぐらぐらと揺れていた。境界線に立っている
美しい人間は、過去どころか其の身を奈落に打ち付けて果ててしまうようだった
。危うい。不安定な平衡感覚は既に何処か毀れているのか。
それなのに彼は飽くまで美しかった。貌に刻まれた苦渋すら酷く妖しげで悩まし
い。
彼が詞を疎んじるようになった原因は何処にあるのだろうか。
べらべらと口にするだけで其れをする気のない輩とは、彼が再三言っている愚鈍
な民衆だと仮定する。もうひとり、有言実行などをする小賢しい虚栄の強い人間とは誰
のことだろうか。仮面と違い父母には畏敬の念があるようだ。其れ以外の近い誰
か、例えば重い信頼を置いていた他人に裏切られた故の反発か。それなら毀れそ
うなすがるように赤い封筒を握っている彼を観察している少年にも理解が出来る
。そして、そうなのだとしたら並々ならぬ執着だった。未だに肯定したい深層と
嫌悪する生理が葛藤を興している。その火花だ。恐怖は彼の裏側では甘美な欲求
なのだろう。
考察は癖だった。しかしその癖は今は只の深読みに過ぎないか無用の長物のよう
だ。
「僕の行動原理だけどさ。」
口を開いた仮面に断髪は貌を上げた。眼が少し胡乱だった。疲れて居るようだ。
その筈だ。彼は余り乱れない。統率の取れていない混乱した状況に萎んでいるの
だ。仮面にはその心情はよく理解できた。それは恐いだろう。全く解らない、解
ろうとしなかった箇所を目の前に突き付けられている。
「なんでも使い途だ。」
「―――使い途。」
「欲しがってたらあげる。ほしかったら貰う。使えたら使う。簡単。単純。ギブ
アンドテイク。」
「其れが出来たら、」
苦労はないのだろう。其れも解る。
「お前が恐いのは本当はなんなんだ?」
「…」
「恐いのは解った。お前がどうしてもあのこに言えないのも解った。けどそれ
はなんでだ?さんの反応が恐いんじゃあないんだろ。其れ以外になにが恐いんだ?恐い
のはなんだ?だって可笑しいだろ。一番気にしなきゃいけないことが気にならな
いなら、お前が他に気にしてることは何なんだ?お前は、それが解らないんじゃ
ないのか?」
「―――違う。私は、」
「お前は?」
何時もは凛と直線に他者を射る涼しやかな硝子玉は、音を立てて割れそうなほど
震えている。
「そんなことは解っている。私が恐いのは彼女であり私自身だ。彼女に過去の落
としたものの影を投影して勝手に葛藤して居る。自分のものが自分のものではな
いこの独り歩きをする状態が―――」
恐いのだと口だけが動いた。
ゆるゆると口許を微笑ませたのを見下ろした。寂しげな、諦めたような色の濃い
笑みだった。
仮面は彼が差し出している封筒を無言で受け取った。和紙で出来た袋を握った手
が、こわごわと開いて引っ込んだ。
「預かる。」
「…頼む。」
深く息を吐いて脱力した彼は、仮面の何時にない真面目腐った顔を笑った。笑っ
て馬鹿にしてくれたら気も紛れるがなと自嘲した。
封筒は指の形にひしゃげていた。
彼は此の時点でも迷って居るのだ。そう思うと、その美しい人間の本を挟む優しい
手付きと手紙の形を変えた激情の境界で立ち竦んでいる姿は、酷く悲しいように
仮面には思えたのだった。

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