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様へ。 お手紙ありがとうございます。私も、こうした形で手紙を頂いたことはなかった のでなんだか新鮮です。 お貸し頂いた文庫の本体と表紙の間から見えました。もう少しで見逃すところで した。気が付いて良かった。 中原中也は読んだことがないというよりも、嫌いな人間の愛読書だったのであま り手を出したくはなかったのです。読まず嫌いでしたが、今回読めたことをあな たに感謝します。 心臓が小さく縮んでカラカラと鳴るような気持ちがしました。不安になりました 。あなたの家の直ぐ前、あの不思議な坂の真ん中に立ち止まって振り返らなけれ ばいけないような、そんな気持ちでした。悲しいのに、なにが悲しいのか解らな いような、子供が駄々を捏ねたくなるような不安な心持ちでした。 彼も、此れを読んだときにはそのような気持ちになったのでしょうか。 死んでしまった人間の心を、貴方のようにそっとしておこうと思うのも、誰かの ように正しく汲み取ろうと思うのも、故人を親しみ敬うことには変わりがないと 思います。私は、彼がどういうことを思って其れを書いたのかに馳せるのが好き です。紙の薄さを何十倍にも重ね合わせて厚くして、其れを残そうと思ったのは 何故だろう。そうした気持ちを空想することで、例えば私が好きな井上靖と対話 して居るような気持ちになるのです。勿論、そんなことはある筈がないのですが 。 返事は、御言葉に甘えて出さないことにします。 此処まで書いた手前何を言うのかと御思いになるでしょう。しかし、読み直して 浮かれていない部分が無いとは云えません。貴方にそういった部分を見せるのは、 如何にも死んでしまうほどに恥ずかしいのです。 手紙を手にしたときの嬉しさを貴方に伝えることが出来ないことだけはとても残念です。 明日、此の本をそのまま返します。薄情だと思われないことを願うばかりです。 ただひとつだけ、悪戯を。 表紙の間に、赤い小さな色紙を少し切って挟んで返します。其れを、私が貴方の 言葉を拾った合図に致しましょう。貴方の手に届く前に落ちて仕舞わないように 手渡すようにします。 貴方は気付くでしょうか。貴方が気付かないことを祈るなら、私は気付いてくれ ることを祈りましょう。 御身体、御自愛下さい。風邪気味のようですね。春が近いといっても未だとても寒いのですから、薄着は 避けられるよう願います。 貴方が私を心配して下さっているのと同じくらい、私も貴方のことが気に掛かって居るのですから。 桐雨刀也 |