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「桐雨君、」 柔らかい静かな声が陽菜子の耳を擽った。クラスメイトの高い背を極力丸めている少女の彼を呼ぶ声だった。ふと気になってそちらを振り向いてみると、何時もの時代錯誤な格好の女のような顔をした彼が、勿丁面で厚い雑誌を受け取っていた。日焼けした古い雑誌で、最近発行されたものではないのが確認できる。 彼女と良く話す陽菜子はの母親の実家が中野で古書司を営んでいることと其処に身を寄せていることを知っていたので、きっと彼に頼まれたお使いかなにかだったのだろうと納得して妙に背筋を寒くさせた。 「桐雨君、ねえ…」 随分と仲が良いことは以前から承知していたが、この前までは他のとりまき(たいのにあまり彼に相手にされない女子達)と同じように居合君と番長の號で呼んでいたのに、一体どういう状況の変化だろう。 女子特有の他人の色恋の匂いに浮き浮きする性質は陽菜子にもある。何時もならに寄って行ってことこまかに根掘り葉掘り聞き出すのだろうが、その相手が寄りにも寄って番長とは。彼女が親しい彼への警戒は実害を被られたという事実にうがっていて克服が難しいし、何だか丸くなった彼を見ても其れは変わらない。だからこそ、「何があったの?ああ、聞きたい!」という野次馬根性は全く日の目を見ずに済んでいたが、遠巻きにそれをためつすがめつしているとりまき(たいのに必死に逃げられるためにそれが出来ないでいる女子達)の射殺されるような強い視線が彼女に注がれていることは伝えてあげなければいけないような気がしている。 番長でなくともスケバンが居なくても、女にはグループというものが存在してそれに逆らうと非道い目にあう。そういったものに加わらず最低限の友人(そう、このクラスで言えば陽菜子と他一、二名くらいだ)との交流しか持たないは何故かターゲットにはならなかったが、色恋の匂いに当てられた牝の群れになると、きっと格好の餌食だろう。優しいおっとりとした彼女の性質が彼女等を撃退できるのか。いいや、できまい。 胃を重くしている陽菜子の目の先で何時ものようにゆったりとした態度を崩さないは、眠そうな眼を細めてとろんと笑っていた。厚い唇の端が持ち上がるととても可愛らしい様子になる彼女に、少年は懐から(!)文庫本、また随分と古いものを取り出して差し出していた。貸し借りしてるの。少し前にコーヒーショップのチェーン店で、ジュースのストローを氷に差し抜きしながらぼそぼそと早口で言った彼女を思い出した。ちゃんと感想を言ってくれるのよ。本当に本が好きなのね。そういったに彼が貸した本を少し覗こうと背伸びをするが、どうにもこの角度からは見えない。残念だなあと諦めて、そろそろあんまりみたらかわいそうだと彼女に手渡されるのを切りにしようと決めた。 瞬間だった。 ばさり。 文庫が落ちて音を立てた。二人の間に間が出来ている。その青味掛った長い髪に隠れての顔は見えないが、此方に顔が向いている少年の顔はとても良く見えた。眼を見開いて、青ざめて固まっているようだった。 椅子から大きい音を立てて立ち上がった。珍しい。彼は音を立てやすい学校の備品から、するりと音もなく移動するのに。足早に教室から消えた彼をぼうっと見送っているなで肩は、ぴしゃりと閉められた扉を見つめたまま落ちた本を拾いもしない。 「?」 何時もの様子とは違う背中に不安になった。側に行って声を掛けた。ひなちゃん。長い間のあとに、長い髪の間から声がした。声は陽菜子を振り返らない。 「なにか、あったの?」 また間があった。彼女がこちらを振り返らないことにも不安になって、陽菜子は少し髪の間を覗き込む。 丸い頬は、色をなくして紙のように白い。 「手を、触ったの。」 わざとじゃ、ないのよ。ぼんやりとした声は、身長の割りにちいさな手を見ているようだった。爪の整えられた女の子らしい細いちいさな指。ぱっと手を降ろして、は陽菜子を振り向いてにっこりと笑った。 「はたかれちゃった。」 それから屈んで本を拾った。埃をふっと息で払って、びっくりしたのねと頚を傾げた。 すいっといつものように窓際の席に戻った。すとんと腰を降ろして、手にした文庫を捲っている。 白い顔に血の色は戻らない。 その日、陽菜子の前で彼女たちが会話を交わすことはなかった。 放課後一緒に帰る日課が出来たばかりのふたりは、ひとりは逃げるように其処を後にして、ひとりはおっとりと荷を鞄に詰めていた。 一度、彼女が目を窓の下に投げた。手をそっと窓に当てた。 きっとその下には、あの手を叩いて落としたことを後悔している少年が居るのだろう。 窓の外は雲が重く垂れている。 バタバタと大粒が落ちてきた。けもののうめき声のような低い音が耳に届く。ああ、嵐だ。 そう思った陽菜子の目の先で、ぱっとは立ち上がって急いで走っていった。 鞄を置いて行った彼女は、その手に折り畳み傘をひとつ携えている。 陽菜子は窓に寄って下を覗いた。一間置いて下足場から飛び出して傘を開くのを忘れて駆けていく少女が濡れる。どんくさいな。そう笑ったところで、は気が付いて傘を開いた。赤いちいさな、可愛らしい傘だった。 濡れても見栄を張って歩き続けるだろう少年を追い掛けている。彼から借りた本を濡らさないように、鞄を置いたままで。 ああ、他人なんか、関係ないんだね。 陽菜子は、まったくもって調子外れだった自分の思考に溜め息を吐いた。 |