此の世界はトカゲでいっぱいだ。ぼんやりと印象の薄い、けれど密やかに華のある調和を保った顔が、薄すぎる唇からポトンと粒を落とした。
「何処かへ行くわけじゃなく、うごめき黙っている。」
「谷山浩子。」
「イエス。」
口癖をまたポトリと落として、彼はに眼を移してぼんやりと笑った。にとってぼんやりとした陰のような男の子は、また今まで繰っていた本に意識を戻して項を捲った。本当は、彼はそんな風に手で、眼で、生身で本を接種するのは無意味だ。電脳に潜り細いクモの網の其処此処に落ちているファイルを読み込めば、あの分厚い邦書を総て脳に抱き込むことになる。そちらの方が正確で時間も掛らない。けれど、電脳の申し仔足る年齢の彼は其れをせず、何時間も何日も飽きることなくゆっくりと本を租嚼した。カロリーメイトを摘むより、きちんと造られた素朴な卯の花を箸で口に運ぶ方が好きなんだと、彼はいつか言った。非効率的だし卯の花なんて食べたことないけどと、ポトンと落として笑っていた。
「タンポポサラダのレコード盤を見付けたんだ。買っちゃった。」
「あれに穀物の雨が降るは入ってなかったと思うんだけど。」
「うん。思い出しただけ。」
また時代錯誤だ。“思い出す”という単語をメディアテーク以外に、彼が口にして初めて現実世界で耳にした。既に外部に自らの記憶を移して補完するサーバーを個に持つ人間だらけの現代に於いて、思いを抽出から取るという行為を表す言葉は、遠い過去の遺物だった。
「高価かったんじゃない?プレーヤーまで買ったんでしょ?」
「勿論。高価かった。貯金があって良かったよ。半分トンじゃった。」
「メディアテーク行くんじゃダメなの?」
「欲しかったんだよ。」
物欲が湧くなんか、久しぶり。楽しそうに密やかに笑う。そうすると、彼の華は綻んでふんわりと匂うのだ。
最近、彼はずっと楽しそうにしていた。否、嬉しそうにしているというのが正しいか。謳歌していた。沢山のことに興味を覚えるようになった。只事務的とも言えるような本の読み方をしていた彼が、洋書を専門にしていた彼が、今まで眼も向けなかった19世紀から20世紀初頭の邦書を手に取るようになった。立って眺めていた世界に腰を折って食い入るように夢中になっているのがよく分かった。
専門に其処らの書物をインプットしていたに、面白そうな本を教えてと眼をキラキラさせて尋ねた彼の可愛らしかったことといったら。まるで少年探偵団に、明智小五郎に胸を踊らせる子供のような眼。下町の子供が万博に、ガガーリンの功績と米国のアルミの旗と月の石へ憧れるように世界を欲している。ああ楽しいもっと識りたいもっともっと!そんな風に手を伸ばしている。
そんな無邪気な彼へ教える本ではないと思いながら外部装置から検索したのは、横溝正史という作家の“真珠郎”という小説だった。ただ今の彼なら、夜の光に眼をまたキラキラさせて口の中に其れを誘い込み愉しそうにするのだろうと思っただけだ。案の定、読み終った彼は僕もあれやりたいとくすくす笑ったのだった。
その夜は、閉め切ったビブリオテークに二人で残って真珠郎ごっこをした。ちいさなLEDを其処此処にランダムに設置して、一つの蒼白い光の粒を彼が口に含んだ。彼が口に含んだものをも頬に入れた。自分じゃわからないから、君もやってよと押し付けられて、ひとが口に入れたものを初めて其処に移した。
凄い、顔の中が透けてる。本の通りだ。が思ったことを彼が口にした。静かに。ゆっくり。でも確かにはしゃいで。綺麗だなあ。感嘆に震える声でにじり寄って、指で頬をつついた。がしたかったことを彼がした。
は彼がかわいそうになった。
が偽の夜光虫を口に含むその前、彼が蒼白い粒を頬に転がす風情を、彼自身が視ることが出来ないのは酷いことだと思った。わくわくと浮いた意識でそろそろ口に運んで、うきうきくわえて、ころころと感触を楽しみながら片方にしまった。その無邪気の美しさ。あどけない表情をした少し鋭角に弧を刻む頬が、暗く沈みきった図書館にフワリと輪郭をぼやかす神々しいまでの光景。たくさんの書架に留まった夜光虫が舞う。その中にキラキラと眼を乱反射させる青年が、まるで奇跡のように其処に在る。
息が詰まる。むせかえる。どうにも処理のできない此の衝動を、は知らない。外部記憶装置への通信は切っていた。彼処に容れてはいけない。少しだけ残った灰色の蛋白質に収めなくてはいけない。そう思ったからだ。どうしてそう判断したかは、外部装置に頼りきりになっていたの蛋白質にはやはりインプットされていなかった。
彼が頬をつつきながら、本当は虫なのだから口の中で動くだろうとコードを引っ張ったり押し込んだり動かしている最中に、弾みで彼の指が唇に触れたことに泣き出してしまった意味すら、本人には解らなかった。
嫌なら、言えばいいのに。ばつが悪そうにしょげた彼に、否定したいのに何が違うのかもわからない。わからないことばかりだった。わからないことを楽しむ彼がよくわからなかった。はもう、その状態に耐えられなくなって、口のコードを引き抜かれて頭を撫でられた頃には外部装置に急いで回線を繋いだ。
それでも何をどう検索したら良いのかもわからないには、結局結果は提示されることはなかったけれど。
それからずっとだ。まったく理解が出来ない呼吸がさいなまれる感覚と塊がずっと咽喉にある。塊ではなく袋かもしれない。自覚をしていないときは萎んでいるのに、彼が笑ったり眉を潜めたりを眺める度に、只彼のかんばせを視るだけで膨らんでいく。外部装置から検索するだけでおかしくなる。何か病気なんだろうか。精神性の、自律神経関係の。過呼吸か無呼吸か、そんなものに近い気がした。ぼんやりとしたものに、矢張り外部装置からの応答はない。不思議なことばかりだった。熱に浮かされたような状態でそんなことばかりに巡らせていたら、
「此の世に不思議なことなど何ひとつないのだよ。」
分厚い読みにくい紙の束に眼を通しながら、彼が口を割った。
「京極夏彦。」
「イエス。」
「何のはなし?」
「不思議なことばかりだって、いま言ったよ。」
口に出ていたのか。電脳化していたとしても、義体化は一切していない一般人である身体が、には恨めしかった。義体にも脳の無意識に打ち勝つ個体が存在しないことをナラは知らない。
「私のサーバーって、欠陥があるみたいだよ。検索かけても、なんにも引っ掛からない。」
「サーバーは只の匣だよ。なにか匣の中に入ってるものに意味があるんじゃないか。」
僕みたいに、蛋白質の中を歩き回ったら良いのに。今眼を通している本から引用した彼に、匣自体が自分になる人間だって居るよと引用で返した。いいな。僕、木場刑事好きだよと矢張り楽しそうに彼は笑った。
蛋白質がくわんと鳴く。
何に反応したのだろう。細やかな脳核の波紋から、瞬く間に咽喉の袋が最大限に膨張した。息が吸えない。否、吸える。けれど何かが詰まっている。顔がぱんぱんに膨らんだような気がしている。熱い。自分の今の状態は一体なんなんだと外部装置に問掛けてみた。とある昔の歌の、ひとつの単語が引っ掛かった。それだけ。でもにはそれが酷く当てはまるように思った。そうだ、私は矢ッ張り病気だったんだ。はふうと震える息を苦しいなか吐いた。口がひん曲がる。そんな顔は彼に見られたくない。けれど、何故見られたくないのかはわからない。下を向いていると、視線の先の項を捲っていた彼の指が緊張するのが見えた。
「何で泣いてるの。」
「ないて、ない。」
「この前と同じ顔してる。水が出てないだけじゃないか。」
ぱんぱんに膨らんだ顔を手で覆う。頭に詰まった空気が水になって溢れて来そうだった。其れが恐ろしいようだった。矢張り、理由はわからないのに彼に其れを見られるのは嫌だった。
じゃあどうして私は彼に会いに此処に来るのだろう。
自問に答えは返らない。
「私、病気なんだよ。」
「なんの?」
「…風船病」
「たまか。嫌いじゃあないけど、唐突だね。」
「おかしいんだ。最近ずっとおかしいの。咽喉が詰まって、苦しくて、何かずっと泣きたくて。あ、頭に蛍がいるの。」
「LEDの?」
「うん。此処の、ニセモノの蛍。」
「外部装置に通した?」
「ううん。検索は掛けたけど、コピーも保存もしてない。」
「…どうして。」
「わからないの。」
最近、なにもかもわからない。頚を振った。咽喉が詰まる。苦しい。
彼の指がの髪をすいた。彼はこんな風に生を謳歌するようになってから、よく接触をはかるようになった。兎に角よく触った。頭を撫でたり、頬をつまんだり、つついたり。可愛らしく只触ることを繰り返す。そうして接触をもったの頭皮が、彼の漏れる光に帯電したかのように痺れる。頬も、あのときの唇も。
病院に行こう。促した彼の口調は真剣だった。
「君おかしいよ。思ったように電脳に繋げない、思考の混乱、脳の萎縮による神経の萎えで呼吸が出来なくなっていたんだとしたら───そのままでいたら手遅れになるかもしれない。」
「…電脳病だって言いたいの。」
「可能性はないわけじゃない。」
「多分、違う。」
なんでそんなこと言えるんだ。密やかに声を荒げる。感情を剥き出しにしていた。こんなことも最近多かった。笑ったりたまに怒ったり、まるで今まで見ていたグレースケールのフィルターを一枚通したようなぼんやりとした彼が嘘のようだった。
「どんどん、君がかわいくなるからいけないんだ。」
「…何の話。」
「君を見てるとおかしくなるの。咽喉がギュウッとなって、息が吸えなくて、頭がクラクラするの。なんにも考えられないの。笑うんだもん。私のことどっかに置いて、そうしてかわいく笑うから、」
ふと、そこまで言葉を垂れ流したは気が付いた。自身に取り巻いているモヤの正体を知っていた。彼が笑顔を見せる度に咽喉の奥を詰まらせていたものの一面を、ぽっと蛋白質が拾った。
顔を覆った手を下にずらした。彼から視た手の隙からのは、うすぼんやりと光る眼をしていた。水気を孕んで膨らんだ茶色が、彼からはわからない感慨に透けて透明になっている。
「何があったの。」
「…何のこと、」
「私に面白い本を教えてって、訊きにくる少し前に何があったの。君、そのくらいからおかしいもの。今まで全然興味がなかったことに没頭したり、明るく笑ってみたり、ちょっと怒ってみたり。ほんとに変だよ。」
少し間があった。二人が口を開かなくなるとBGMもない質素な空間は、書架を整理するロボットのエンジン音以外に響くものがない。そんなに、厭?沈黙の間にポトンと彼が滴を落とした。ほら、そんなふうに他人の言葉に傷付くくらい剥き出しになっている。うっすらと感慨に耽りながら、違うとは頚を振った。
「君、かわいいね。」
「さっきから、いったい何の話をしてるの。」
「凄くかわいいの。今の時世蛍がいないからって、普通あんな疑似空間を現実でつくる?電脳からイメージ引っ張り出して、其処に行けばいいじゃない。」
今までそんなことしなかったじゃないッ。顔の手を振り下ろす。ガツン。利用者の居ない図書館に、大きな音が響いた。彼は、いきなりの剣幕に驚いて肩をすくめる。
は腹が立っていたのだ。生半可なことには興味を持たず、超然とした姿勢でただ本をあさる彼が、コード付きの蛍を口に含んで子どものように手を伸ばしていることが腹に据えかねて居たのだ。どうして君はそんなふうに居れるの怖くないの今まで当然あったものをそんなに簡単に手放せるのッ。癇癪を起こして椅子を蹴って立ち上がったの頬には、見られたくないと拒否していた水が滴っている。
「わかんないわかんないよう君がわかんないッ。わかんないのがどうして怖くないのどうして笑ってられるの楽しそうなのッ。外部記憶装置へのアクセスを切るなんて信じられないッ。なんでそんな怖いことができるの、なんで私とそういうことをするの、私が怖がってるのまで楽しんでたんでしょう、そうなんだ!」
「そんなつもり、ないよ。」
まるでぼんやりしたように、彼はおぼつかなく頚を振った。衝撃から抜け切らない子どもだった。大人に叱られたかのように、身体を強張らせて恐る恐る否定する。嘘吐きッ。じだんだを踏まれてまた身体を縮める。
「ねえ、なんで私なの。ビブリオマニアなら私以外に沢山此処へ来るじゃないッそういうひとと遊べば良かったじゃない!なんで私だったの、なんでこんなことに巻き込んだの、ねえ、どうして」
息が切れている。動悸がする。立っていられなくなってしゃがみ込んだの目の前で、彼はただ息をしていた。ナラの風船病は空気を吐き出して回復したのかというと、風船は未だに咽喉の奥で膨らみ続けていて、ただごうごうと昇った血が膨らんだ風船に栓をされて鎮まることなく、まるで目の前まで赤くなるようだった。夏目漱石の“三四郎”だ。主人公の三四郎は誰にも顔向け出来ないことをして、そのせいで旅にでるのだ。近くのポストも駅のホームも空もみんな赤くなってぐるぐる回り出して、それで物語は終わる。だから私も何かが終わるんだ。はそう思った。
「言ったじゃないか。」
の何かは終わらなかった。其れを許さなかった。プツプツと、彼が悲しそうに呟いているのを、眼も挙げられずにただ聞いた。
「紙とインクの匂いが好きって。埃っぽいのが良いって。だからよく此所に来るんだって。最初に、話したときに」
言った。落ち着いた時間の匂いがする此処が好きだった。事務的に動く時計のような書架整理のロボットが好きだった。忘れてしまった小さなきっかけで、言葉を交わすようになった司書の青年を良く見ていた。人形のような、事務的に本を処理するように一定のリズムを刻む項を捲る音が好きだった。
───では、は彼自身をどう思っていたのだろうか。
だから君が、喜んでくれるって、思ったんだ。かわいらしい童顔に似遣わしくない低音が滲んでいる。
「僕が楽しいって思ってることを君も楽しいって思えるなら、こんなに良いことはないって思っただけなんだ。だってそんなふうに、此処を空間ごと必要だと思ってくれるひとは稀だし、嬉しかったから。」
ぼくは共有したかっただけだよ。ロボットの本を選定しながら書架へ戻す音に、彼の声が重なる。単調なリズムに別の規則性が付与されポリリズムになる。その乱す声が心地よかったのだ。この空間の何よりも、ビブリオテークの主の特有のそのリズムが好きだった。
音楽。ふとは思い出す。
「音楽に、」
「え、」
「音楽に興味があるか、君は私に訊いたね。」
「訊いたね。」
「君が変わって、最初のころ。」
「そうだね。あの頃、本以外に五感を楽しませるものを開拓したかったから、それで」
「私、君に最初に何をお勧めしたっけ。」
「人間椅子。桜の森の満開の下。」
「ああ、そうか。それであの頃の邦書」
「うん。興味が出たから、君が面白いって思う本を教えてって。君は邦文学専門だったし。」
その流れで自分は真珠郎を薦めたのか。忘れていた部分を沿って、そうしてはやっと得心が行った。他人と共有する楽しさを、少し前にあったことで知ったんだ。彼は続ける。
「ぼくは本を読むにもネットにダイブするにも、殆どひとりでしていたから。誰かと共通の話題で会話することが楽しいことだっていうのを知らなかったんだ。音楽も読書も結局はひとりで楽しむものだけど、楽しんだ後に他人と共有することはできるんだっていうのを、君に音楽が好きか訊いたそのちょっと前に知ったんだよ。」
野球は下手だからキャッチボールには自信がないけれど、君としてみたいと思ったんだ。吐息で笑う気配がした。
「なにがあったの。」
「教えても良いけど、ちょっと込み合ってるから長いよ。君はやきもち焼きだから怒るかもしれない。」
「やきもち?」
「妬いてたじゃないか。僕が変わったことに怒ってた。」
「怒ってた、けど。だって君が私を置いていこうとするから。」
「どこかに僕が行くことが厭だった」
「そうだよ。」
「やきもちじゃないか。」
そうだ。は初めて気がついた。どうして彼が少し子供のような言動と所作を会得したことに対して腹に据えかねていたのか。誰かに彼を変えられたことが堪らなく厭だったのだ。それをするのは自分であるべきだと何処かで思い込んでいたからだ。
「僕は変わってなんかないよ。」
そう言う彼の顔が気になった。やっと顔を上げると、彼はとても柔らかく花が綻ぶように笑っていた。ぼんやりとした輪郭の影のようなおとこのこは清冽な存在感を持って、いつの間にの前でひざを折って目線を合わせていた。
「ただ、捕まえられただけなんだ。」
「誰に?」
「誰かは問題じゃない。だけど、僕は誰かにそうしてほしかった。ライ麦畑の中で、それを待ってた。」
「サリンジャー。」
「イエス。」
もわりとまた風船が膨らんだ。しかし破裂はしない。そうするのは自分であってほしかったという欲を抱いていた事実が既に解っていたから、厭ではあったけれどなんとかいなした。
「君は自分の欲求を満たされたのね。」
「そうだよ。」
「まだ捕まえられたままなの?」
「もしかしたらそうかもしれない。だから待つのはやめた。」
「捕まえられたから?」
「自分も捕まえようと思ったから。」
「誰を?」
「今の流れで、それを訊くかな。」
が思うに、捕まえられて捕まえたくなったなら捕まえたその人間を対象に選ぶのが普通だ。それが、捕まえて捕まえられた両者のやり取りではないのか。また風船は膨らんだ。だから口に出した。その疑問に彼は普通ならそうかもしれないねと声を上げて笑った。静かなビブリオテークにそれはとても響く。
「僕が変わったって、君は言ったね。」
「言ったわ。」
「それは僕が誰かに捕まえられたからだ。もう誰かを待つ必要がなくなったからだ。彼女は僕を捕まえたけど、でもそれだけだ。もう僕はきっと彼女に会わないし、彼女も僕に会わない。」
「それでいいの?」
「それ以上はないんだ。ただ、僕は耳と目を閉じ口を噤んだ人間になるのを辞めるきっかけをもらっただけだ。」
「またサリンジャー?」
イエス。そう返ってくるとは思っていた。彼は笑ったまま目を伏せる。
「I mean if I had my goddamn choice, I'd just be the catcher in the rye and all.」
僕は彼女になりたかった。だから違うんだ。その意志の篭った眼。擬似蛍の光を閉じ込めたような眼。
「僕は変わってない。根幹は。ただきっかけを貰っただけだ。共有の大切さを知っただけだ。知っていたつもりだったけど、そうじゃなかったことを知ったんだ。だから僕は捕まえることにしたんだ。」
「誰を?」
「すべてを。」
「すべてを。」
「“なりたい”じゃなく、“なる”んだ。その一歩だ。」
「一歩?」
「一歩めが、君。」
「私?」
そう。君と共有したいんだ。蛍の光にビブリオテークが沈んでいく。
「共有しているのかそうじゃないのかわからない関係から脱したいんだ。はっきりと僕と君の共通認識を作りたいんだ。君の好きなものが知りたかったんだ。君が僕のことを好きなのは知っていたけど、僕もそうだって言いたかったんだ。僕は君の好きなものも含めて、君を肯定したいんだ。」
君が此処を肯定してくれたの、本当に嬉しかったんだよ。彼はが見ている前で、初めてのしぐさと表情を見せた。照れくさそうにぎゅっと眉根を寄せて、の膝を抱えていた手にそっと触れた。そうして触れられて、の風船は

一気に膨らんで、ぱちんとやぶれた。

「僕は君が好きなんだ。ほんとだよ。」
疑わないでね。柔らかい袖の感触を頬に感じて、それから自分がまたぼろぼろと泣いていることには気づいた。気づいてから、既に共有していることをどう伝えたらいいか、考えた。
外部記憶装置へのアクセスはいつの間にか切っていた。ただは、どうにも通信を再開しようという気にはならない。少なくとも、今は。








燐光と頬