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もしも指先が自分のそれに触れるとして。 桐雨は縁側で自らと同じように文庫本を繰っている少女の指に目を遣った。 同年齢の女子の平均よりずっと高い背を丸めてその本の世界に耽っている同級生は、ただ没頭し柔らかな曲線の中を空にしている。そっと授業中に窓際の彼女を遠くから眺めていることの多くなった桐雨は、このように近い距離で少女をためつ眇めつしていることにどうにも不思議な心持と、とてもいけないことをしている罪悪感とがない交ぜになって本に集中することができない。 まつげが伏せられ瞳が文字を追い。理解する思考が項を追い込み指が始末した其れをゆっくりと繰る。 これまでがひとつの動作。少女が本を読む様は何にも譬え難い独立した風情があり、其れが少年の目を惹いていた。特に指の項を捕らえるその柔らかさよ。身長にそぐわない小さな掌から伸びるほっそりとした五本の力の抜けた伸びやかな。桐雨はそうする少女のきらきらした虚空の眼と動く爪のひかりが一等好きだった。 そうだ。桐雨は明らかに少女を好いている。 その好意が少女が桐雨に持っているとあの日告白した慕情と同種のものであるかどうかは別にして。 その性質が、誰に何を押し付けることもなくひとりで唯本を読む孤独が好ましかった。孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の象のように。仏陀はそう語ったという。桐雨の眼は仏陀の言う林の中の象を少女に見ていた。余計なものを持たず、何にも染まらない。それはきっと何かを変えることを目的にした桐雨が持たなければならない一種の性質なのだろう。桐雨は少女が羨ましかった。 もしもその指先が自らのそれに触れるとして。 あの項を繰る爪のひかり。自らに好意を持つ少女のそれがもし今、自らに向けられたとして。坂で握ったあのちいさな手がまた己の手を捕らえるなら。そうして触られてしまったら、その孤独の指がもし自分を選んだなら。彼女は桐雨に慕情を持っていると告白していた。偶にふたりで本を読む放課後や休日に、うれしそうに頬を染めることも桐雨を選択したことを示唆していた。押し付けがましい程の好意をきっと隠しているのだ。その重量に少年が押し潰されぬよう。既に彼女は桐雨を選んでいた。 だからこそ、優しいおっとりとした白い象のような彼女を、何かの奴隷にしてしまうことがこの先ないとは桐雨には言い切れない。 桐雨の中にはひとつの衝動があった。じっと押し黙った柔らかそうな口、縁側に横たえた黒タイツの脚の肉が形を変えること。スカートが脚に黒い影を重ねるように、桐雨にも翳を作った。それに眼を囚われる自らにはっとする。死んでしまいたいほどの羞恥が身体を支配する。自らが何かの奴隷に彼女を選ばないとどうしていえようか。こんな風に彼女を厭な眼で見ている自分が、柔らかく淡く光る彼女の思いにどうして応えられようか。どうして。ここ数日、桐雨は己を律する以前に恥ずかしさで沈んでしまう。彼女の孤独に応えるのに、己の暗い衝動は邪魔なのだ。桐雨はその衝動を振り払えない自分と、孤独な象を較べて悲しくなってしまうのだった。 もしもその指先が自らのそれに触れるとして。 少女がその重量を桐雨から隠すように、桐雨自身もその衝動による仮定を必死に消さなければならなかった。少女がその柔らかい身に還って来る前に。きらきらとした虚空の眼をぱちくりといつもの眠そうな眼に戻して、「もうこんな時間ね」と柔らかく笑う前に。 桐雨はぎゅっと眼を強く瞑り頭を振った。然様なら衝動よ。もう出来るなら会わぬよう。 …それも出来ない話なのだろうが。つい、もう一度目を遣った。そのきらきらとした虚空の眼と始末の指先を眼に焼き付けて、衝動を蹴散らすために。 そうして気づいた。少女のあどけない口元から伸びるあけすけな咽喉に。横結びされた髪に隠れた、華奢なうなじに。 桐雨は目の前が真っ暗になった。 彼に翳りを生んだ衝動を、人は微かな欲情と呼ぶ。 |