刀也さん。隣の長身が桐雨の名を呼んだ。
少女の身を寄せている祖父の家が古書店を生業にしていると聞いたときから足を運んでみたいと思っていた。という旨の発言をしたときに、彼女がじゃあ今度良いときを教えてとぱっと顔を明るくしたのだ。少女は祖父母がとても好きなのだそうだ。良いことだ。にこにこと彼らの話をする少女はとても楽しそうだった。その合間の口約束が実を結び、桐雨は中野の駅前で待ち合わせをした。
中野は異界だ。
この場合の異界とはあまり足を踏み入れたことのない地域を指している。あまり馴染みのない場所だった。梅田の入り組んだ路地より、しらない学校の校舎よりずっと知らないもので溢れているような気がしている。駅に降りたってから、空気の匂いまで違うような新鮮な感触があった。駅の構内でちょこんと椅子に腰かけて待っていた少女が私服だったから、という要素もあるのかもしれない。
「刀也さん」
「あ、」
二回目。亡容としているのに通る声が呼んだ。返事をすることを忘れていたことに気が付いて謝ると、頚を振ってにこっと笑って見せた。
「刀也さんがぼうっとするの、珍しいね。」
「…そうか?」
「初めて見たよ。」
「いつもしていないことをしているから、かもしれないな。」
「稽古を一日休むのがそんなに気になる?刀也さんはまじめね。」
「というか、」
「うん?」
頚を傾げた彼女に、桐雨はあまり来ない地域に居ることで高揚しているのかもしれないと漏らした。
少女は眼を丸くした。
「異界に浮き足立つことなんて、刀也さんにもあるのね。」
浮き足立つ。少女の言葉の響きが腑に落ちた。桐雨が感じていた異界という単語がとても自然に口から出たことにはあまり違和感がない。いつか借りた本にそんな小説があったようにも思う。坪田譲治のお化けの世界だったか。児童書でやわらかい文体の話なのに、どこか薄寒い暗い本だった。
ちいさいこには、とても身近に異界があるのね。随分ちいさな頃に読んだ切りだったものを再読した彼女は、そうため息を吐いて感心していた。
ああ彼女の言葉だったのか。その部分にも納得した。
つまり桐雨は知らない土地に来て浮かれているのだ。旅行の味噌は非現実感だと言う。すると距離はないにしろ、感慨の上に於いては完全に小旅行だった。先ほど少女に指摘された通り、稽古を一日休んだことによる罪悪感も非現実を演出するのを手伝っている。
足下がふわふわしている。らしくない。
前を見た。狭い坂は思いの外長く、だらだらとした印象で続いている。灰色の油塀は真っ直ぐに伸びて、坂と一緒に或る箇所でぷっつりと切れていた。そこが目的地だ。
坂の向こう側は見えない。
少女が口を開いた。
「おじいちゃんがね、お化けが好きなの。」
お化け。鸚鵡返すと、うんと頷いて妖怪とも言うねと付け足した。
「水木しげる?」
「好きだよー。あと凄い昔の和綴じのカビ臭い本とか。」
「蔵書として持っているのか。凄いな。」
「コレクターの域よ。おじいちゃんに言わせると奴等と一緒にするな、なんだけど。ちゃんと読むから違うんだって。」
読まない側からすればどっちも変わらないのにね。楽しそうに足を運ぶ少女が一歩前に進み出た。
「その中に、異界とこっち側の境界線そのものを表してるお化けが居るんだって。」
「…お化けだろう?こう、暗がりから驚かしたり枕元に立ったり。」
「そういうのも居るし、後者は幽霊ね。」
「違うのか。」
「お化けって、概念とか理屈に人格を付け足したキャラクターなんだって。幽霊はお化けの一種で、人の思いは死んでもなくならないっていう概念かな。全部おじいちゃんの受け売りの上にうろ覚えだけど。」
「随分論理的な人なんだな。」
お化けが好きというからには超常現象でも語るのかと思っていた。そう正直なことを言うと、おじいちゃんが聞いたら憤慨して三時間は説教ねところころ笑った。
「この前貸した本、覚えてる?」
「…さっきそのことを考えていた。坪田譲治の、」
「結構びっくりしてたよね。」
「珍しく児童書だったからな。それに、紫村の感想が興味深かった。」
「異界の話?」
「うん。」
「その話をおじいちゃんにしたの。そしたら、そんなものは子供にはないよって否定されちゃった。」
「……ない?」
少女はこっくりと頚を縦に振った。
「異界って、自分が持たない別の概念とか知らないものとか、そういうちょっと見えにくいものだったりもするんだって。子供って、そういうものを受け入れちゃうじゃない。自分のものにしちゃうの。だから、本当の意味での異世界はないよって話だったな。馴染んじゃったら、もう自分の世界でしょ?異界を拒むのは大人なの。」
「ああ、そういうものかな。」
「異界って、昔は隣の村のことを表してもいたんだって。」
前を向いていた黒い髪がゆっくり振り向いた。足が重い。立ち止まった。先ほどからふわふわと覚束ない。異界に足を運ぶ楽しさは消えていた。妙な徒労と焦燥と、違和感。ふにゃふにゃぐにゃぐにゃと地面がやわらかい気がしている。
目の前の外国めいた顔をした少女は、違和感など何処にもないと言うように普通に笑っている。
そうだろう。彼女はこの「世界」の人間なのだから。
「境界線は確固たるもので、世界の違和感の共用は絶対だった。違和感や恐ろしいものや不安に名前を付けて固めた。揺すって、落とした。異界を自分のわかるように、自分達の言葉に直して意味付けた。これがお化け。」
「…妖怪。」
くらりと目の前が揺らいだ気がした。油塀は切れていた。なのにそこには何時までもたどり着くことがないように思った。儚い予感。妄想と区別のつかない目眩の世界。
連れて行かれようとして居るのか。その世界の住民である少女に。
なんでもないよと甘い笑顔で誘い込むお化けに。
「大丈夫?」
顔色、悪いよ?朗らかな顔から眉にきゅっと力が入る。その手が伸ばされる。白い手。爪の形の美しい手。 捕まってはならない。
桐雨は後ろに下がった。少女の驚く顔。眠そうな二重の瞼が開かれる。
その世界で桐雨が彼女を見たのはその顔が最後だった。
桐雨は罠にかかった。
坂の仕組みに、堕ちた。





「大丈夫?」
桐雨はの手を握って腰を上げた。
無様に尻餅を付いたばつの悪さで歪んだ顔を笑われて、情けなさに泣きたくなる。言うの忘れてたね。はいかにも楽しそうに厚い唇を横に引き延ばした。
「塀があるでしょ。これね、まっすぐに見えるから坂もまっすぐに錯覚しちゃうの。でも凄く歪んでてね、ほら、よく見ると坂なのにちょっと下りがあったり急だったりするの。」
が指を指した箇所に目を凝らした。なるほど、下に目を遣ると微かに凹んだ箇所がいくつもあった。視界の浮わつきはこれが原因かと納得した。ね。一言では桐雨の納得に返した。
「まっすぐ見てると、坂の歪みがわかんないから感覚がおかしくなって船酔いみたいにくらっとしちゃうの。面白いでしょ。私、最初に登ったときはあんまりぐるぐるして吐いちゃった。」
「…」
違和感が解消されて視界が晴れた。途端に我に返った桐雨は何を考えていたのだと己を叱咤する。馬鹿らしい。
「下を見ながら歩きなさいって、おばあちゃんによく言われたわ。」
「あまり進んでいないように思うのもそのせいか。」
「うん。意外と波打ってるから距離があるの。」
でも酷いとこは抜けたからこれからは楽よ。にっこりしながら手を引かれた。普段なら大丈夫だと辞退するそれを、目眩で足が覚束ないせいだと言い訳をして握った。
仕組みが解って不安は解消されたのに、どうしてかそうしていたかった。
手を繋ぎながら抜けたコンクリート塀の先は、何の変哲もない少し時代から取り残されたような薮のある小路だった。断絶していないただの町だった。
自分はこの世界を受け入れたのだろうか。桐雨は自分が子供だということを自覚していた。自覚させられていた。けれど、さすがに三平と善太のようにはいかなかった。年端もいかない頃には戻れない。
「おなか、減ってない?」
「少し。」
「近くにおじいちゃんが若い頃からある蕎麦屋さんがあるの。」
「老舗だな。」
「町のちいさな蕎麦屋さんよ。安くて美味しいの。」
おじいちゃんったらね、お蕎麦啜りながらもべらべら喋るのよ。上手に喋るの。面白いよね。眠そうな顔は教室に居るときよりもとても楽しそうに見えた。案外、浮かれているのは桐雨だけではないのかもしれない。
楽しくなって尋ねてみた。坂を登りながら少し気にしていたことだった。
「そういえば、油土塀の向こうには何があるんだ?」
「油土塀?」
「ああ、その…セメントだ。」
ああ、は頷いた。
「お墓よ。」
「…は、」
「共同墓地なの。」
「…全部、か?」
「大きいよねえ。」
行こう。少女はにっこり笑って薮の広がる道を先に歩いた。
薄寒くなって立った鳥肌を隠して、少女のあとに桐雨は続いた。







お化けの世界