虚勢を張る気はないのだけれど、取り分け恐いことなんかなかった。
 例えばいまここで、雑踏の中で人に腹を刺されるとする。誰も助けない。血がたくさん出て痛くて、ぼんやりとした意識の中でひとりで死んでも、それはきっと恐いことじゃない。きっと酷く悲しいのだろうけど、かなしいだけだ。 人に会いに行く直ぐ前にそれが叶えられることがなくなるのは悲しいけれど、それは僕にとっては不思議なことじゃない。有り得ないことなんて何処にもないんだ。だから、ぼんやりとした意識の中で彼女の好きな顔を思い浮かべながらあぶくになって弾けて消える覚悟はいつでも出来ている。
 それは想像するだけで涙が出るような、すごく淋しいことではあるのだけれど。
 木のプレートに花が彫られている小さなペンダントを買った。革を小さく切って輪っかにした鎖が珍しかったから、きっと彼女が気に入るだろうと思って買った。安かったし。何時も会える訳ではないから、罪滅ぼしを兼ねているのかもしれない。物に吊られる可愛いげのある人じゃないって知ってるのに。

 帰るところが、欲しいんだね。
 彼女が言った。いつもだらしなく結ってるくるくると癖のある髪が裸の背に落ちて綺麗な肌に影を作っていた。  君は君の帰りたいところに帰っていいんだよ。それがサーカスでもしろがねのところでもあのこのところでも、帰れるところは何処にでもあるよ。
 それが私であって欲しいのは、私のわがままだから。
 帰るところは何処にでもあるよと突き離しておいて、それでも帰ってきてほしいと頭を抱く女の人を思い出す度に胸が痛くなる。縛り付けられていたい狡猾さを彼女は許さない。だから彼女は許さない。僕も、自分自身も。
 自惚れじゃない。彼女はいつでも行かないでと信号を送っている。瞬き、姿勢、仕種、声。全てを使って居心地の良い空間に縛り付けようと躍起になっている。
 彼女は気付いていない。…気付いて居るのかもしれない。でも言わない。寂しいとも悲しいとも傍に居てとも、一度も言わない。荷物になるなら棄ててくれと言い切る彼女は、僕が彼女を抱えきって立てることを認めない。
 拐ってしまえばいいのだろうか。
 一緒に居てほしいと態度に出せば、信じてくれるのだろうか。
 ふと過った欲求を、かぶりを振って打ち消した。してはいけないことだ。それこそ、彼女が僕を嫌わないことを目測に入れた卑劣な行為だ。
 男が女に輪を贈る理由。それだけで僕がしたいことは成立している。僕は縛り付けている。

 それ以上に何が欲しいんだ。


 鬱蒼とした式ばかりの脳味噌に、一滴水が落ちる。
 高い背を寒さでちぢこませた髪の色の薄い女の人が居た。世界の中でひとりだけ色付き。そんな視界は一度も持ち合わせたことはないけど、彼女を見たときの一滴の雫は僕の信用し切れない要素の中にひとつだけある真実だった。
 手を繋ぐのを許してくれるだろうか。彼女は機嫌が良くなければ、それをさせない。