もう辞めよう。
桐雨は後ろから掲げられた紅い傘の柄をそっと押し返した。肩の辺りが濡れて柔らかな赭髪に雫を生んでいる、桐雨に傘を差し出した少女が彼よりも高い目線できょとんとしている。
何を?問い掛けてにこっと笑った。
「こんな貸し借りをすることだ。本を貸したり、貸されたり、他のものを貸したり、貸されたりすることだ。」
「他のものなんか貸し借りしてないじゃない。」
「お前には、解らない。」
解らないよ。は柄を押し返した。びくともしない。固辞している。頑な態度に笑顔が牽き吊った。ちいさな紅い傘からボタボタと濁流が垂れている。
「辞めるって、なにを?なんにも始まってもないよ。」
「だから其れを───」
始めるのを、辞めよう。桐雨は笑った。諦めの濃い落ち窪んだ其れに、解んないとだだをこねるようには頚を振る。
「だって、私が勝手に刀也さんを好きなだけで、私刀也さんに一度も其れを強要したことなんてないよ。どうして?」
「お前の問題じゃあ、ない。私が、」
「刀也さんがどうしたの?」
「もう名前を呼ぶのも辞めてくれ。」
「どうして」
「お前には解らないッ」
雨の音がする。ばちばちと傘のビニイルを、アスファルトを叩く衝撃が耳にこびりついている。敗けないように大声を出した。眉を寄せてぎゅうっと傘を握り絞めている少女が、当たり前よッと怒鳴った。腹に響く。通る声をしたの初めての大声だった。ぽつぽつとちいさな声で囁くように話すの大声は、思ったよりずっと強烈に鼓膜をつんざいてびりびりと反響した。まるで稲妻だ。桐雨の意識から雨の音が消える。
「なんにも言わないもの!刀也さん、わたしにもだれにも、ほんとに思ってることを言わないじゃない!それでどうして解れって言うの?わかんないわよわかんないものはわかんないわよ!自分勝手!いけず!強情ッ張り!」
「強情ッ張りはどっちだ!」
お前こそ私に思っていることを言わないじゃあないかッ。ばちんと傘の柄を払った。転がって強い風に拾われる。直ぐに視界から姿を消した傘に、少女は目もくれず桐雨を見据えている。そうしたいのに、目が泳いだ。動揺していた。
「本当にお前はこのままでいいのか?どちらつかずの私に業をにやしているんじゃあないのか?何故お前はそうやって笑って居られるんだ?ただ我慢をしてるだけじゃあないかッ」
「そんなの、」
「そんなの何だ?そうか、私がお前の気持ちに答えられないのを知っていてにやにや笑ってからかっているんだな。」
「どうしてそうなるのよッ」
「お前がそうしていることで、私が困ることは考えて居ないんだな。」
ヒュッと息を吸い込んだ音がした。何かを言い返すための呼吸は、そのまま霧散して消える。
「困ってるの?」
「ああ、困るよ。困っている。」
「迷惑なのね?」
勢いが掻き消えた。ぶれた声に水が乗っている。我に帰ったように、いつものぽつぽつとした囁きが、それでも雨を避けて桐雨の耳に潜り込んで三半器官を掻き乱す。ぐらぐら、ぐらぐら。こんな状態を知っている。目の前の少女の自宅の前の不気味な細い坂だ。あの坂に、彼女に連れられて行ったときの危機感。手をとってはいけない。連れていかれる。何かわけの解らないものに知らないところに連れていかれてあとはどうなるかわからない。紅く点滅する光がぐらぐらと沸き立つように回る感覚。あの如何しようもない恐怖感は間違えじゃあないのだ。手を取ったから、連れていかれたから。ああそうだ。全部お前のせいだ。お前が訳の解らない柔らかさでクニャクニャと笑うから、お前が私の手を引くから、お前の掌があんなに小さいから、ふと目を落とした先の足があんなにちいさいから、お前が私の前であんなに無防備にぜんぶを放り出して眠るから、お前のスカートが短いから、お前のスニーカーがあんなに赤いから、おまえのすべてがやわらかそうだから。
あの夢想は自分のせいじゃあない。この目の前の静かに本を読む女のせいだ。あの手を取ったときに、既に手遅れになってしまったんだ。じわじわ柔らかさが蝕んで、
───ホラ、自分じゃあ、もう制御できない。
「迷惑だ。」
桐雨はうなだれてひとことだけ吐き捨てた。
しんと雨の音が蘇る。
ざあざあ、ざあざあ。
少女の唇が濡れている。眼は見れない。見れるわけがない。
襟もリボンも何時もの制服に羽織った生成のセーターも、スカートも其れからにゅっと伸びている二本の黒い棒も、目を反らした先にある赤いちいさなスニーカーも。きっと、今触れたら驚くほど冷たいのだろう。 ───ホラ、また触ることを考えている。
「わかった。居合くん。」
が號を呼んだ。ぷつぷつと泡立つ小声で、早口で。少女は踵を返して小走りで桐雨の目の前から消えた。
「あからんね。しょんなかね。」
ごめんなさい。泡を生む声で最後にそう残して、赤いスニーカーが下を向いていた桐雨の視界から出ていった。笑っていたように聞こえた泡は、少年には意味がわからない異界の言葉だった。当たり前だ。少女は異界の人間だからだ。自らが受け入れられない其れは異界なのだ。そう少女が言っていたじゃあないか。
ひとつわかることがある。彼女が桐雨の言ったことにひどく傷付いて、何かを諦めたことだけ、はっきりとしていた。

すっきりしたような空っぽなきもちで、桐雨はくう、と咽喉を反らした。髪が水を吸って、其れだけ重い。どこかわからない世界にひとりぽっちになった少年は、せいせいしたと息をはく。
何処に連れていかれることもない。惑わせることもない。自分を厭うこともなければ、少女を辱めて充たすこともなかった。何処にもわからない場所に、ひとりきり。
あとは歩くだけだ。ひとりで誰にも手を引かれることもなく、それによって慶びを獲得することもなく。はじめはそうだったのだ。はじめにもどっただけだ。それでいいんだ。
すがすがしく前を見た。一歩踏み出した。

曇天が重く立ち込めている。雨がバタバタとアスファルトを叩いて水煙をあげていた。前が見えない。バス停の直ぐ見えるところに居た筈なのに、時刻表を掲げた其れは何処にもない。何処かわからない場所に、ひとりきり。
途端に気付いた。
もうひとりで歩いていた世界とはまったく違うところに来ていることを、忘れていたことに思い到った。
何処に歩き出せば良いのかも解らない状態で、ひとつ身で置いて行かれてしまった。置いて行かれたのではなく、自らで手を振り払ってしまった。
如何しようもない恐怖感に駆られて、桐雨は振り向いた。
少女はもう、どこにもいなかった。
水に濡れた身体が嘘のように冷えていた。
少年は思い出していた。
停滞してしまいがちな自らを、自分勝手に手を引いて進ませてしまう推進力を持った今の少女と、もうひとりとても好きだった過去を重ねていたことを自覚していたことを思い出した。このように知らない世界にひとりぽっちにして、また違う世界に行ってしまった兄弟子の晴れやかな笑みが脳裏にこびりついている。
まったく似ていない両者は、きっとスイスイとこの水のカーテンを掻き分けて游いで、何でもないように直ぐにでも桐雨の手を握るのだ。
またひとりぽっちになるなら、自らの手で切り捨てた方がましだとでも思ったのだろうか。視界の遮られた其処をやみくもに歩く自棄さえも起きないのに。
目が萎えていた頃とも違う。耳には雨の音の栓が付き、肌は連続で与えられる雫の冷たさに麻痺している。薄明るい其処は足下だけが確認できる状態が不気味だった。
───怖い。
ぐらぐらと視界がたわんでいる。アスファルトが容赦せず、桐雨の歩みを妨げている。


「───。」
呼んだ。
誰も応えなかった。







眩暈