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「博士が、か。という名前を聞いたときにはまさかな、とは思ったが。そういえば君が兵役拒否をした後の監察員は彼女だったか。」 「彼女の母親である日本の女性警官と懇意にしていたと彼女本人から聞いてましたよ。」 「勘繰らないでくれよ。君達のような間柄ではない。」 「わかってますよ。彼女はご自分のご主人がとても好きなようだった。」 第一、私達が異常だということにはお互い気付いています。溜息を混じらせて吐き出したエプシロンの言葉を「そういえば娘の話をするときは妙に歯切れが悪かったがね。」と肩をすくめながらゲジヒトは流した。 「なんだ、やけに暗いじゃないか。」 「接触をすることが出来ない。」 「言っただろう。触れないって。」 「インプットしていたはずなのに、」 「辛いかい。」 「…辛い、です。」 切り株に腰を下ろしたエプシロンは、両膝に肘をついて顔を覆っていた。生前彼は疲れてしゃがみこむという経験はなかった。身体疲労を知らなかったエプシロンはそういったことをする必要自体がないためだった。なのに、よく分からない不安定な存在になった彼は疲れている。打ちのめされている。体が重く、何処かに腰を落ち着けたかった。 「なら、還るという選択肢もあるにはあるが。」 「かえる?」 「リインカーネーションという単語を知ってるかい?」 キリスト教圏で造られた私たちにはとてもなじみが薄いけれど。ゲジヒトは片眉を跳ね上げた。その表情と単語に、エプシロンは惺の母親の面影を見た。指をクルクルと回しながら、六つの世界を、死ぬ度に循環していくという思想だよと説明した。そういった思想があることは説明された側も知っている。「運命の輪」と似て似つかない不安定な概念だと父が言っていたことを、ふと彼は思い出した。 「最初から環から逸脱している私たちにも、そういったものは存在するのだろうか。」 「…さあ、それは生まれ変わったことがないからわからないが。」 「私たちはどうしてここに存在しているのでしょうか。」 「未練があるのかもしれないね。」 未練。エプシロンは繰り返した。今彼が思い悩んでいることは、確かにれっきとした未練だった。それなら彼の隣に立って穏やかに笑っているゲジヒトにも未練があることになる。 「仏とは、人が無になるという字なのだそうだよ。その世界の構成要素ではなくなるという意味合いなのだとさ。」 「私たちは人間ではなかった。」 「犬にも仏になる要素がある。何故仏にならないかというと、彼らが自らが仏になる可能性に気付いていないからだ。受け売りだがね。私たちは犬のようじゃないか。」 仏性に気付かない人間のともだち。言葉の響きを楽しむように口の中で転がして、ゲジヒトは顔を覆ったままのエプシロンの肩に手を置いた。 「寂しい思いをさせたら、友人失格なのかもしれないね。」 「…」 「決着をつけるか、寂しい彼女を見守ることを責任と捕らえるか、方法はたくさんあるさ。」 「…」 「例えば、仏になるか、神になるか。」 エプシロンは不可解さに顔を上げた。 「…神に?」 「そういう喩えを君の義母から聞いたよ。仏になるってのは、今空で光っている星になるようなものなのだそうだ。遠い手の届かない何処かへ行ってしまう。日本で神になるということは、ほら、今君の足元にある石ころになることなのだとさ。近いところに当たり前に在るものになる。面白いな。確かに星も石も物質的には同じものなんだ。不安定な説だが、不合理ではない。一神教にはない柔軟さだと思わないか?」 「誰かは、私たちに選べといっているのでしょうか。」 さあ?ゲジヒトは頚を横に振って柔らかく笑った。 「他のかみさまが、おせっかいを焼いたのかも知れない。」 ざあざあと葉がこすれる音と、大気が動くのに其れに反応しない自分の髪がちぐはぐだ。エプシロンは大きく自覚する。 もう、彼女と全く異次元の存在になってしまった。 立ち上がる彼に、行くのかいと尋ねた。エプシロンは頷いた。 「まだ決めてはいないけれど、もう少しだけと一緒にいたい。」 半分嘘だった。彼女の傍に行くことは確かに彼の一番の欲する願いだ。それに沿うように、若し彼女が、同じように思ってくれているなら、石ころとしての自らの存在を許してくれるならと望みを持つのを、エプシロンはとめられない。 ゲジヒトは頷いた。彼の嘘も真実も、何もかも解っていると言うように。 「総ては君が望めば在るのさ。好きにするのが最良の選択だ。」 「…はい。」 あなたにも、幸運を。その一言を最後にして、なびかない髪の彼は地を蹴って、消えた。 2011 01/05 |