その部屋に彼女はひとり、パイプ椅子に腰掛けていた。
 彼の手を見ている。黒い何時ものセーターの切れ端が焼け残った白い手には、続く筈の腕も身体もない。
 彼に差し伸べられた手を握るように、掌に置いてそっと撫でる。こうして静かに、何の言葉もなく彼の近くに居たことは今まであったろうか。煤に塗れたそれでも白い手は、ただ重く彼女の手には冷たかった。
 彼女は泣かなかった。彼が生きていた頃には困らせることが生き甲斐だというほど、それはよく泣いて手を焼かせたものだった。彼女のまぶたが腫れないように慎重な手つきで泪を拭っていたのは、目の前でしんしんと死を主張する右手だった。
 持ち上げる。硬い。それは右手の持ち主が彼女と全く異なる組織を持ったロボットという存在だからで、身体の全機能をストップさせたことに因る硬直とは無関係だ。彼の家事をしても荒れることのなかった強い人工皮膚は死臭さえさせなかった。
 彼女は首を垂れて、その死の象徴のつまさきにキスをした。
 彼女の行為に意味はなかった。
 その彼の遺体だと運ばれた掌は、もう電気信号の通うことのない只のパーツなのだから。
 彼女はパイプ椅子からズルズルと崩れ落ちて、オイルのにおいのする機械を抱きしめた。片方の乳房に指が触れているのを知覚して、それでも何の感慨も見出せなかった。
 煙のようにぼわぼわと覚束ない思考のなかで、ひとつだけ感じるものは空虚だった。

 穴が開いた。彼女は確信している。

 それでも彼女は泣けなかった。
 何故かは彼女はおろか、誰も知らないことだった。


2011 01/05