眠れなかった。
 居をともにしている孤児院の長が姿を消した。世間では彼に累が及ぶと考えられる件で騒がしかった。
 彼と似たひとつの存在が死んだ。彼の父が件で葬られて間がなかった。
「心配あるもんか。エプシロンは強いのよ。みんなが一番知っているじゃあないの。」
 は不安にぐずついている子供たちを抱きしめて撥ね退けた。自らが、それを嘘だと否定していることに気付きながら。彼が強いなんてよく言ったものだ。彼が自分の責務や罪悪感に潰される可能性に一番脅えているのは 自身だ。
 何時までも訪れない眠りに痺れを切らしてベッドから飛び起きた。どうしようもなく、不安だった。
 かといって部屋で無意味にグルグルしていてもしょうがない。気を紛らわせようと其処を出た。ブランデーを入れたミルクでも飲んでいるうちに眠れるだろう。そう思いながら、ドアを開けた。
 の部屋は廊下の端にある。あらゆる民家の定石のようにそのドアの横に廊下のライトのスイッチが添えつけられるようにして設置されていた。手を翳す。明かりがついた。
 ふと、違和感。
 リビングのドアが薄く開いていた。最後に部屋に引っ込んだのは自分で、ドアを閉めたのも自分の筈だった。薄く寒気がした。立てかけておいていたモップを握る。彼がいない今、子供たちを守るのは だ。
 リビングのドアは、他のものと違ってガラス窓がはめ込まれている。其処から様子を見ようと、つま先で音を立てないように中の見やすい位置に恐る恐る寄っていった。人影が見えた。大きな背は少し華奢に見えるが男のようだった。黒く明かりのついていない室内に溶け込む服装は見覚えがある。それから、それに垂れているひかりを反射するプラチナブロンドも。
「エプシロン、」
 滾らせていた緊張を解いた。かつん。モップを放った音に、呼ばれた彼がゆるゆると此方を振り向いた。「…。」芒洋とした表情で名前を呟かれた。声は届かない。我慢できなくなった女は勢いよく走り寄ってその首根っこにぶら下がる。
「エプシロン、エプシロン、」
、」
「どうしてみんなに何にも言わずに行っちゃうの、心配したのよ、凄く、凄く心配したんだから、」
「…すみません。」
「変な気でも起こされたのかと思った。」
「変な気、ですか。」
「どこに行っても君の自由だけど、みんなや私を悲しませることだけは、絶対にやめてね。」
 安堵に眼が潤む。エプシロンはぴたりと身体を預けているの背をおそるおそる、撫でた。その果敢ない風情ときたら。ぶるりと身震いを起こした。彼はこうして人に抱きつかれたときに抱きしめ返すということをしない。垣根を取り払って歩み寄ったあとの彼でさえも、それをするのは大変に困難なようだった。
 力加減を誤ってくちゃっと潰してしまうことが、ないとは言い切れないでしょ?
 何時か憂いに満ちた声で笑いながら言った、ぽろぽろと崩れてしまいそうな果敢なさを、はまるでロボットのように正確に覚えている。
「どこに行ってたの?」
「ホフマン博士のところへ、」
「ゼロニウム合金の第一人者?」
「彼の身に、被害が及ぶのではないかと、」
「…実際危険だったのね。ホフマン博士の研究室が爆破されたのは、ニュースで見たわ。」
「協力者のところへも、行きました。」
「……ヘラクレス」
「彼は、」
「うん、それも、見た。国葬、2日後だって。」
「そうですか。」
「君も危ないよ。君が心配に思うのはわかるけど、もっと自分のことを考えて。」
「三原則から逸脱した行動でしょうか。」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
「そうでしょうね。」
 でも、わたしは。人工声帯が、に彼だと認識させる周波数を出している。とても近くで見上げた頭から金の糸が垂れている。頬に明かりが掠って、其処だけが抜けるように白い。
「二つの相反する対象を衝突させないようにするには、何が一番効率的で効果的か、はわかりますか?」
「間を取り持つ?」
「もっと間接的です。」
「…接触しないようにする」
 そうですね。彼は頷いた。
「そんなことは、誰にでも解ることだ。では、此れは解りますか?」
 『何故私は二人を遭わせてしまったのか。』ゆっくりと発音された英国よりの英語。何時も絶えず浮かべている口元の笑みは消えている。解はなかった。は絶句している。
「私は止めたかった筈だった。」
「エプシロン、」
「衝突を避けなければと思っていた。」
「エプシロン!」
「私はどうして彼の下へ連れて行った?そんなことをすれば、ヘラクレスと“彼”が殺しあうのは解っていたはずだ。」
「だめよ、そんなこと、」
「私は彼らが死んでしまえば良いと思っていた?どうにでもなれと放り投げた?…誰も人の話を聞かないと、癇癪でも起こしていたんだろうか」
「考えちゃ」
「惺、わからない。判らないんだ。バグかもしれない。どうしよう、僕は壊れているのかもしれない。壊して、殺してしまうかもしれない。殺すのは惺?いやだ、そんなのは、いやだ!」
 頚を振る。縺れて顔に掛かった髪を巻き込んで頭を抱える。
 開け放した扉の向こうから射す心もとない灯りを、くしゃくしゃになった淡い色の流れの奥から渦巻いた眼が反射せずに吸い込んでいる。は漸く気が付いた。穏やかなのではない。彼はどうすればいいのかわからずに悄然としているのだ。プログラミングされていない変数に耐え切れずシナプスが繋がらない。それは割り切りの世界に棲んでいるロボットには不安以外の何物でもない。
 なのに君がどこかへ行って仕舞うのは耐えられない。震える声がぷつぷつと沫が消えるような音で静かに響いた。
「私はどこにも行かないよ。」
「置いていかれる。」
「そんなことしないったら!」
「嘘だ!」
 現に父さんは死んでしまったじゃないか!息を捻って絞りきる。人間の粘膜に似せて造った口許が震えている。
「ああ、どうすればいい、どうして、こんなにこわいんだ。どうして、どうして、」
「私は生きてるよ。此処に居るよ。君の前に居るよ。触ってるじゃない。」
、嗚呼、たすけて、どうすれば、ぼくは、」
「なにもしなくていい。平気よ!君は知ってるよ。私は君が解らない所になんか行ったりしない。私は居なくならない。」
「ぼくをひとりにしないで」
「大丈夫。ひとりぼっちになんかならない。」
 此処でずっと、君を待ってるよ。子供たちと一緒に、君が帰ってくるのを待ってる。君は大丈夫。大丈夫よ。君は大丈夫。だって、私たちを君が守ってくれるじゃない。だから大丈夫。君は私たちを守ってくれる手を持って作られたんだもの。博士が、君のお父さんがちゃあんといってたよ。そんな君が、誰かに意地悪なことをするもんか!そんな風に君は出来てないよ。君は出来ることをしただけなの。一人じゃどうにも出来ないから、だから助けてもらおうとしたのよ。とても大事なこと。賢明だった。君はホフマン博士を守ろうとしただけ。だってこんなに、君は考えているじゃない。誰かを守ろうと必死になって悩んでいるじゃない。だから大丈夫。君は大丈夫。君は私たちを守ってくれる。だから、私たちは此処に居るよ。君が守ってくれる私達が、君の帰る家を守ってる。だから、君はひとりにはならない。
 頭を抱える腕を除けて彼の頬を包む。涙のこぼれない乾いた頬は滑らかで、力の篭った指に凹んで形を変える。変な顔ね。は笑った。細めた眼から、涙がこぼれた。
 背に腕が回される。引き寄せられた。肩口に顔を埋めて力を込めた彼を、は安心できるように精一杯の力でもって抱きしめた。腕の拘束は緩い。それでもそろそろと力を込めている。彼はを抱きしめている。
 嗚咽が漏れないように息を止めた。何もかもを置いて、自らに寄りかかってくれた彼の期待を無にすることだけはしたくなかった。
「さあ、お茶にしよう。美味しく淹れてね。君も飲むのよ。真似だろうが嘘だろうが、そんなの構わない!君は私と一緒にお茶を飲むのよ。それから私に腕枕をして、一緒に寝るの。起きたら子供たちのご飯を作って、学校に送り出して、みんなが帰ってくる前におやつの用意をして、みんなにお帰りを言うの。みんな遊んで遊んでって君を取り合って、大忙しよ!困っちゃうね!」
 腹に力を込めていたはずなのに語尾が震えた。鼻を啜ると、その音に彼は笑ったようだった。頭をなでて。彼が強請る。ゆっくりと撫でた。身じろいで額を肩に擦り付けられる。彼は息を吐いた。深く深くため息を吐いた。あばらが軋んでいる。彼が自らの変数に振り回されることも、こどものような我が侭も初めてだった。
 は、そのことをとても嬉しく思う自らが場違いであることを知っていた。



2011 01/05